「無縁の縁」

 旅行で国内は飛び回っているものの、海外は生まれてこの方行ったことがない。

 ほぼ毎年家族旅行に行き、ほっといてもどこかをうろうろしているような人間だが、日本からは出たことがない。海外に行きたい!と強く思ったこともない。というか別に「絶対に行くんだ」という強い思いがなくても、「仕事で」「修学旅行で」「推しのライブが」などの理由でも充分に海を越えることができるのだから、ただ単にご縁が結ばれていないんだろうと思う。

 そんな私でも、行きたい国というのはある。フランスである。歴史や芸術が好きなのだから、やはりルーブル美術館オルセー美術館といった本場の美術館に一度は行ってみたい。有名な作品をこれでもかと見て、本物だ…とか言ってみたいものだ。それと凱旋門ノートルダム大聖堂ヴェルサイユ宮殿もこの目で拝んでみたいものである。あの立派な建物とその装飾の美しさを味わいたい。あとできれば有名なあの蚤の市でちょっとしたかわいい小物など買ってみたい。ついでにパン屋で本物のフランスパンも買ってみたい。

 こんな感じでおおよその行きたいところややりたいことなどはあるのだが、実行に移そうという気がまるで起きない。実際にいろいろ考えていると、フランス語全然わからないし…飛行機10何時間か乗らなきゃいけないし…治安が…物価が…とどんどんネガティブになり、なんだか私とフランスとの間は縮まるどころかひどく断絶してしまうのである。というか、どうにも私は自分の思っていることが通じない(かもしれない)、ということが結構怖いらしい。日本に住んでいても思っていることが通じないことなんてまああるのだが…。それはともかく、その恐怖心からか間違っても勢いだけで「よっしゃ!飛行機予約しよう!」とはならない。そもそもパスポートないし、勢いだけで予約しないのは賢明だろう。そんなこんなで、私はフランスに行く、またフランスで旅行を楽しんでいる、というイメージも湧かないでいるのである。ふらんすへ行きたしと思へども、ふらんすはあまりに遠し。

 こんなことをもちゃもちゃと考えていた折、森絵都さんの『屋久島ジュウソウ』というエッセイに「②無縁の縁」という話があった。なんでも森さんは人生において、「運転免許を取ること」「ピサの斜塔を見ること」だけは絶対にありえないと思っていた。しかしその「絶対に」という決めつけが仇となり(?)、結果的には二つの禁忌をどちらも達成したそうである。以下本文より引用。

 人生において絶対にありえないことなんて、なくていい。禁忌を設定するのは自らを窮屈にすることで、なんでもありが一番だ、と今の私は思っている。

 けれど一方、人間は何かしら「無知の知」ならぬ「無縁の縁」に縛られて生きているのではないか、としつこく穿ってみたりする。(中略)

 ありえない、ありえないと思いつつ、彼らが見えない糸にたぐられてあれよあれよと(引用者註――彼らにとってもっとも無縁そうなスポットである)シンガポールへ、アフリカへ、ガラパゴス諸島(どこ?)へ吸いよせられる姿を想像し、悦に入っている私である。

 この文章を読み終わり、私の「無縁の縁」はやはり海外、あの考えれば考えるほど遠ざかるフランスなのではないかと思った。「海外かあ」とか思う度に、私はあちら側へじわじわ吸い寄せられているのではないだろうか。いや、「英語すらできないし」とかいう言葉に至っては、最早フランスへ一歩踏み出しているのではないか。こんなの、もう、押すな押すなよ現象ではないか……。みたいなことを、しみじみと考え込んでしまった。

 実際、「無縁の縁」が本当にあるのかはわからない。近い将来に私はフランスに行っているかもしれないし、やっぱり行かずに人生を終えるのかもしれない。そもそも、フランスに対し「無縁の縁」すら無いのかもしれない。けれども、昔の自分が「なんでそこに?」と思うような場所にいるのは悪くないな、と思えた。どこかをほっつき歩いている人生が、やはり私は好きらしい。