初老の歌人と学生服を着た将軍の話――川田順「実朝に逢ふ」

 川田順「実朝に逢ふ」 

 山海居二階の客間に、床の間をうしろにして、右大臣実朝公が行儀正しく座つてゐられる。衣冠束帯でなく、紺地・詰襟・半ズボンの学生服を着用。お顔を拝すると、双頬さくら色を呈して、眼はやや腫れぼつたく、口もとは尋常で、まだ十二三歳の坊ちやんと見うけられた。陪賓の斎藤茂吉は、いつもになく、和服の着流しで、公の向つて左手に、これも極めて行儀よく端座してゐる。主人の僕は羽織袴で、公に真向つて胡坐かいてゐる。今一人、僕の後方に、黒いかたまりのやうになつて、うづくまつてゐる男がある。それはどうも、松村英一らしかつた。如何なる風の吹きまはしで実朝公が山海居に御入来あつたのか、どうもわかりかねる。僕から御招待申上げた覚えはない。公の方から勝手に気まぐれで飛び込まれたものらしい。「幕下と同じ時代の歌人の中では、何人(たれ)を一番御尊敬になりましたか。定家卿でございますか。」と僕は伺ひを立てた。公は否定する如く沈黙してゐられたが、暫くして、「サ行の男。」と返事せられた。「西行法師でございますか。」と反問すると、軽くうなづかれた。僕は更に語を継いで、「東鑑を拝見しますと、長沼宗政とか云う御家来が、或る時幕下に対して、当代は歌鞠を以て業となし武芸は廃れたるに似たり云々と、眼を怒らして諫言した由書いてありますが、本当でございますか。」「…………」「宗政は鎌倉武士らしい忠義者、乍併もの事の認識が足りません。金槐集と征夷大将軍とどちらが幕下にとつて大切なのでせう。幕下の御父さま以來、日本に征夷大将軍は幾人あったか知れません。徳川家だけでも十五人ございました。宗政は認識不足です。」ここで僕の夢はちよいと中断されたらしい。夢か現かわからなくなつた。暫くすると、再び夢が継続しはじめた。「幕下が初めて歌をお作りになつたのは、何歳頃の事でございましたか。」実朝公は座を立たれた。座敷の北側の壁に沿つて音なく歩かれながら、「十八歳」と返事された。「御記憶違いでせう。十四五歳からでございましたらう。」公は黙々として玄関に出られた。式台に腰かけて靴を穿かうとしてゐられる。半ズボンと靴下の間から、膝小僧が寒さうに覗いてゐる。「まだお伺ひ申上げたいことが三つほどあるのです。いづれ近々に私の方から推参してお伺いしませうが、その時には幕下は正直に御返事下さらねばなりません。その御返事は日本の文学史に重大な結果をもたらすのでございますから。」僕はかう申上げながら公の御手を握つた。ちひさな御手は氷のやうに冷たかつた。僕は身ぶるひしながら眼をさました。

 朝飯をたべながら老妻に話しかけた。「今日の夜明け方、実朝公におめにかかつた。」「さうですか。」「紺地・詰襟・半ズボンの学生服を着て居られたので、ちよいと面喰らつた。」「それぢや実朝さんではありませんよ。」「だれだい。」「森村の武ちやんですよ。」と老妻は笑つた。なるほど、さう云へば昨日の正午頃に、その森村武雄と云ふ小学生が制服姿で拙宅に見えた。近日中に東京へ移転するといふので、告別に来たのだ。彼は僕の姪の長男である。

 

初出:「短歌研究 第六巻五月號」(改造社、1937年5月)

底本:川田順『偶然録』(湯川弘文社、1942年11月)

 ※旧字は新字に改めました。

 

補足

・乍併:しかしながら。

川田順(1882~1966)

歌人漢文学者川田剛 (甕江)の子。実業界でも活躍。歌集に『伎芸天』『山海経』などがある。古典研究も多く行っており、『全註金槐和歌集』『源実朝 歴代歌人研究 第8巻』など実朝に関する著作もある。

斎藤茂吉(1882~1953)

歌人。雑誌「馬酔木」「アララギ」において中心的な歌人であった。医師としても活躍。歌集に『赤光』『あらたま』がある。約30年に渡り実朝の研究を行っており、川田との交流もあった。

・松村英一(1889~1981)

歌人。窪田空穂に師事し、空穂創刊の『国民文学』を継承し主宰となる。「短歌雑誌」刊行にも参画した。歌集に『露原』『樹氷氷壁』など。『源実朝名歌評釈 和歌評釈選集』を出版している。

・長沼宗政とか云う御家来が…

『吾妻鑑』建暦三年九月大廿六日の記事による。実朝が謀叛の疑いがある者を捕らえるよう長沼宗政に命じたが、宗政はその者の首を持参した。そのため実朝は嘆いたものの、長政は頼朝の時と比較した際に「當代は、哥鞠を以て業と爲し、武藝は廢るに似て、女性を以て宗と爲し、勇士之無きが如し(実朝は歌や蹴鞠を業として、武芸は廃れているようだ。女性を重んじて、勇士はいないかのようだ。)」と実朝を批判している。

・御記憶違いでしょう。…

『吾妻鑑』において、実朝が和歌を詠んだ記録の一番初めは元久二年四月十二日の記事であり、実朝十四歳の時である。つまり実朝の返答は間違っている。

 

蛇足

 とても好きな随筆でしたので補足を入れて投稿しました。問題や疑問点等ございましたら教えていただきますと幸いです…

初出から『山海居閑語』『偶然録』と二つの随筆集に収録されているため、川田自身も結構この話は気に入っているのかなと思いました。ちなみに初出だと「宗政のやうな奴を、忠義面した莫迦野郎と申すのでございます。」「宗政の如き莫迦野郎。」と宗政に対してかなり強くあたっています。『山海居閑語』『随筆録』においても削除されており、宗政の名前を間違えていたりもしたので今回は『随筆録』を底本としました。興味がある方は是非調べてみてください。

この文の中で好きなのはやっぱり実朝です。学生服を着たかわいらしい姿で登場しますが、「僕」からの質問に答えなかったり違う答えを言われます。そんな言動に加え、その外見も妻に親戚の子であると言われてしまいます。こちらの質問にもきちんと答えず、姿も定まったものではない…というこちらを振り回してくる実朝の様子が、自分の思う実朝像にもあてはまる気がしました。

また川田はこの随筆を書いた翌年に実朝に関する本を2冊発刊しているため、特に実朝を研究していた時期だったのではないかと思うのですが、研究の中での苦労がにじみ出ているようにも感じられます。三十一文字を解釈するのって難しいですし、「吾妻鑑」とかも信頼できたりできなかったりしますからね…。想像ですが、質問に答えてくれない実朝からは研究の中で浮かんだ疑問が解決できない…史料は何も答えてくれない…という思いが投影されているように感じました。わ、わかる…

 以上のようなことから、どこかつかみどころがない実朝の姿からオチまで好きな作品であるためこの記事を制作しました。これをきっかけに、多くの人に読んでいただけたら幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

参考文献

・「短歌研究 第六巻五月號」(改造社、1937年5月)

川田順『山海居閑語』(人文書院、1938年4月)

川田順『偶然録』(湯川弘文社、1942年11月)

・鎌田五郎『源実朝の作家論的研究』(風間書房、1974年5月)

五味文彦本郷和人編『現代語訳 吾妻鑑7 頼家と実朝』(吉川弘文館、2009年11月)

デジタル大辞泉

・日本人名大辞典(講談社、2001年12月)

吾妻鏡入門目次 (fc2.com)