合流大火災のその中の人、現し心あらむや。――堀田善衛『方丈記私記』感想

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

 

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 「方丈記」は、このような文章から始まる。所謂「中世の無常観」みたいなものを体現した文章と言えるだろう。鴨川に近い神社の禰宜の子として生まれた長明が、「河」で「無常」を表現しているのはなかなかに面白いと思う。

 

さて、今回取り扱う堀田善衛方丈記私記』はこのような文章から始まる。

私が以下に語ろうとしていることは、実を言えば、われわれの古典の一つである鴨長明方丈記」の鑑賞でも、また、解釈、でもない。それは、私の、経験なのだ。

  著者である堀田は、「方丈記」に寄せて自分の経験を語ろうとしている。何故大正時代に生まれた彼が、そのように語ることを選んだのだろうか。その訳は、「一 その中の人、現し心あらむや」で語られる。

 堀田が「方丈記」を意識し始めた日は明確であった。1945年3月10日である。

三月十日  九日二二時三〇分警戒警報発令、十日〇時一五分空襲警報発令、それから約二時間半に亘つて空襲が行はれた。来襲機はB29一五〇機と数へられ、単機或は数機づつに分散して低空から波状絨毯爆撃を行つた為、多数の火災が発生して、烈風により合流火災となり東京の約四割を焼き甚大な被害を生じた。

 堀田が引用した『東京都戦災史』には、このように記された日だった。

 この日、堀田は東京・洗足池にある友人のK君の家でサイレンを聞いた。そろそろ寝ようと思っていたころであったが、この辺りにも焼夷弾が投下されたら一溜りもない、ということで二人で避難することになる。幸か不幸か、堀田は空襲や火災等の被害がほとんどなかった安全地帯に避難したために、壮絶な光景を見ることとなる。

真赤な夜空に、その広範な合流大火災の火に映えて、下腹を銀色に光らせた、空中の巨大な魚類にも似たB29機は、くりかえしまきかえし、超低空を、たちのぼる火焔の只中へとゆっくりと泳ぎ込んで行くかに見上げられ、終始私は、火のなかを泳ぐ鮫か鱶のたぐいの巨魚類を連想していたものであった。憎しみの感情などは、すでにまったくなかった。

 たまに火のなかに墜落するものがあっても、喜びの感情も、コン畜生メという気持ちも、私にはまったくなかった。感情の、一種の真空状態、がそこにあった。 

 初読の際に、私は「真空状態」というところに生々しさを感じた。夜空を海と例えた前の文章がある分、余計にそれを感じたのだろう。圧倒的な現実に対し、言葉を失ってしまう人は実際多かったのだろうと思わされた。

 

 しかし、その「真空状態」は当然ながら長くは続かない。巨大な火焔地帯となった深川のあたりには、巻き込まれた多くの人がいる。「親しい女」も深川に住んでいた。その深川が燃える様子を、堀田はただ見ていた。

 そういうときに、真赤な夜空に、閃くようにして私の脳裡に浮んで来た一つのことばが、

  火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛(ぶ)が如くして一二町を越えつゝ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。

  というものであった。

 その中の人、現し心あらむや。生きた心地がすまい、などと言ってみたところでどうにもなるものではない。深川のあの女は、髪ふりみだして四方八方の火のなかを逃げまわり、

 或いは煙に咽びて倒れ伏し、或は焔のまぐれてたちまちに死ぬ。 

 ということになっているにきまっているものであろうけれども、本所深川方面であるにきまっている大火焔のなかに女の顔を思い浮かべてみて、私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物であると痛感したことであった。それが火に焼かれて黒焦げとなり、半ば炭化して死ぬとしても、死ぬのは、その他者であって自分ではないという事実は、如何にしても動かないのである。ということになれば、そうして深く黙したまま果てることが出来ないで、人として何かを言うとしたら、やはり、その中の人、現し心あらむや、とでも言うよりほかに言いようというものもないものであるかもしれない……。(下線は引用者による)

  空襲で燃える東京を見たとき、堀田が思い出したのは「方丈記」に書かれた安元の大火の一節だった。

私はこの文章を読んだ時、とても心を掴まれた。 

 戦時下において、古典というより文学は戦争遂行のための一つの道具だった。私の好きな歌人源実朝も、例に漏れず朝廷に尽くした「勤皇歌人」として「愛国百人一首」に歌が選出されている。後に堀田は「日本の伝統のみやびを強制」されたと述べているが、「日本」や「伝統」というものを押し付けられ、果てはそのために死ななくてはならなかったのがこの時代であったのだろう。そんな時代に、強制されるのではなく実際の人間の生活に古典が現れていたことは、非常に衝撃的だった。

 しかし、そのことに対しただ感動することにはなれなかった。堀田も「一途な感動ということではなくて、私に、解決しがたい、度合いきびしい困惑、あるいは迷惑の感をもたらした」と述べている。凄惨な火災を映した古典が、そこに広がるあの騒乱と無常の世界が、今目の前に蘇ったのである。

 実際にそれを前にして、何ができようか。あの世界が蘇ったとて、何か前向きな気持ちになれるものだろうか。この先はあの中世のような時代になる!と強い口調で皆に警鐘を鳴らせばよいのだろうか。あるのは、「ほかに言いようというものもないものであるかもしれない……。」という、納得に似た諦めと絶望なのではないかと感じられた。

 

(そして後に、「無常観の政治化」―――昔の仏教者たちに直接的な責任は無いのだが、「方丈記」などに書かれた日本の伝統的な「無常観」が、戦争などの「政治がもたらした災殃に際して、支配者の側によっても、また災殃をもたらされた人民の側にしても、そのもって行きどころのない尻ぬぐいに、まことにフルに活用されて来た」という考察を「三 羽なければ、空をも飛ぶべからず」にて述べている。そのように考えるようになったきっかけもなかなか衝撃的なので、是非ご覧になられたし。)

 

ふと頭に飛び込んで来た方丈記の一節を口の端に浮べてみ、その中の人現し心あらむや、何を言ってやがる、などとぶつぶつと独語をしていて、しかし、卒然としてその節の全文を思い浮べてみると、それが都市に起る大火災についての、意外に(といったら鴨長明氏に失礼なことになるが、と思いながら)――意外に精確にして徹底的な観察に基づいた、事実認識においてもプラグマティクなまでに卓抜な文章、ルポルタージュとしてもきわめて傑出したものであることに、思いあたったのであった。

 この出来事をきっかけに、堀田は遠い中世に書かれたルポルタージュ方丈記」を良くも悪くも強く意識するようになる。雑にまとめると、「一 その中の人、現し心あらむや」はこのように堀田が空襲の中で「方丈記」を再発見するまでの流れが書かれているのである。

 

 私がこの第一章が非常に印象的だった。その理由の一つとして、「方丈記」を読んだ際に、ここで中心的に取り上げられている火災の記述に衝撃を受けたからだ。

去安元三年四月廿八日かとよ。風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時許、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには朱雀門大極殿・大学寮・民部省などまで移りて、一夜のうちに塵灰となりにき。火もとは、樋口富の小路とかや、舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。吹き迷ふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙に咽び、近きあたりはひたすら焔ほを地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔、飛(ぶ)が如くして一二町を越えつゝ移りゆく。その中の人、現し心あらむや。或は煙に咽びて倒れ伏し、或は焔にまぐれてたちまちに死ぬ。或は身ひとつ、からうじて逃るゝも、資財を取(り)出(づ)るに及ばず、七珍万宝さながら灰燼となりにき。その費え、いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外、数へ知るに及ばず。惣て都のうち、三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬・牛のたぐひ辺際を不知。

 「風が火炎を猛烈な勢いで地面に吹き付けた」「空に飛んだ灰に炎が映って空が真っ赤になった」「風に乗って火炎が引きちぎられたように飛んでいった」「ある人は煙でむせて倒れ伏し、ある人は焔によって気絶して死んだ」…安元の大火というただの記録ではなく、そこには生々しい火災の現場が描かれていた。

 同時期に書かれた九条兼実の日記である「玉葉」においては、「焔が閑院の方に流れて行って天皇の身の上が心配だ」「大学寮は燃えたが孔子の御影は取り出し奉った」などと、貴族の視点から見た火災(堀田はかなり批判している)が描かれている。貴族の日記だから当たり前だし、貴族も貴族なりの苦労があるのだが。

 それと比較すると、「方丈記」は火が広がる様子やそれに逃げ惑う民衆を高い表現力で冷静に記している。堀田も言うように、長明は実際にこの現場を見に行った、或いは見ていたのではないかとも感じられる。京の三分の一が焼失したという壮絶な火災の現実を表現したこの文は、何度読んでも圧倒される。この表現であったからこそ、私は感銘を受けたのだと思うし、堀田の中で1945年の空襲と1177年の大火が重なったのだと思う。それが、彼にとって良い結果をもたらしたのかは別として。

この印象的な第一章を入口として、「方丈記」と一人の青年の戦争体験が入り混じるエッセイは進んでいくのである。

 

  この後もめっちゃ面白いというか印象的だったのだがとりあえずここまで。長くなりそうだし。

 「日本」や「伝統」というものを押し付けられ、果てはそのために死ななくてはならなかった時代に青春を過ごした青年が、自分の経験を元にして古典と向き合う。「方丈記私記」は、そんなエッセイだと思います。50年ほど前の本なのでもちろん考えや歴史観が古いところもありますが、この時代の彼らがどう古典と向き合ったのか?ということは、知っておいて損は無いと思います。

気になった方は是非読んでみてください。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 

参考:堀田善衛方丈記私記』

   武田友宏『方丈記(全) ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』